ぱとすの人

短歌同人誌「ぱとす」に掲載した文章や編集後記を公開します。

『岡野弘彦全歌集』ノート其の八

 

・ひたすらに独りを欲りす墓の砂乾きしるきに面むけがたし(「葬りののち」)
・み葬りののちひとり来て仰ぎをり随身門のうつばりの塵(「葬りののち」)
・額の痣あをきほむらとなりて燃ゆる怒りの前に一夜わが坐し(「葬りののち」)
・師が一生あまりさびしきを思ひつつ冷えしむ砂を踏みしめてをり(「葬りののち」)
・つつしみて今はまからむ墓山に荒れくる風の音つのるなり(「葬りののち」)
・息つきて師が病み臥してゐたまひし畳の荒れの去年のままなる(「叢隠居」)
・見じとすれどおのづから寄りてゆく去年のままなる寝椅子の窪み(「叢隠居」)
・暮れはつるまで灯ともさずゐし部屋を出づまぼろしに師を見ることもなし(「叢隠居」)
・師の息の細りまもりてゐし夜の萱生のさやぎ耳にたちくる(「叢隠居」)
 折口の葬儀を終えてからしばらくして詠まれた作品と思われます。一首目に詠まれている岡野氏の様子から想像すると、まだほとんど心の整理がついていないようです。
 二首目の随神門とは寺院の仁王門にあたる邪悪なものが神様のいる聖域に入らないようにとの意味で建てられた門とのことで、高貴な人を警護する随身の姿の守護神像を左右に安置した神社の門です。
 三首目は生前の折口が怒りを露わにしたときのことを思い出された歌。折口の顔写真をみると特徴的な痣がありますね。
 岡野氏は四首目で折口はさびしい人生だったと評価しています。五首目にも墓参を終えて帰るときに吹く風を荒れくると表現しており、何か殺伐としたイメージです。
 折口が亡くなる年の夏にともに過ごした叢隠居を亡くなったあとに岡野氏は訪ねます。看病していたころ、遠くで萱が擦れる音が聞こえていたことを九首目で思い出しています。

・寝むとすれどしづまりがたき心もちてあしたの土を素足にぞ踏む(「しづかなる窓」)
・あかときのアパートの窓やすらぎにしづけき見れば人は豊けし(「しづかなる窓」)
・椎の木のそよぎをぐらき庭に立ちてくづれくる心を叱りゐるなり(「大井出石」)
・椎の木の古葉ちりしく門いでて梅雨ふる街にいでゆかむとす(「大井出石」)
 折口の死の後、岡野氏が日常生活に戻っていかれたときに作品でしょうか。三首目にだめになりそうな自分の心を叱るとあり、岡野氏の克己心の強さがよくわかる作品です。

・この家を継ぎくれよと言ひて弟の手を執りにけり涙湧きくる(「家を出づ」)
 岡野氏は神社の神主を代々勤める家の長男で、ご自身もいずれ神職になるべく國學院大學で学んだはずです。岡野氏にとってもご家族にとっても想定外の進路の決断となったようです。

・この夕べ無尽落しにゆくといふ老いし木樵と村に下りきぬ(「村びと」)
・村びとの酔ひしれて我に言ひつのることばを耐へて道歩みをり(「村びと」)
・すさまじく酔ひて帰りし夜の床にあかときの月とどきくるなり(「村びと」)
 岡野氏の郷里の村での交流を詠んだ作品です。酒が入って気持ちが解放され、リアルにその時の様子が描写されています。
 二首目で岡野氏は何か不愉快なことを言われたようですが、そんな時にも三首目にあるように月の美しさを詠み心を落ちつけています。

(「ぱとす」2024年夏号より)

 

大田区仲池上の夏祭り

 

ぱとす2024年夏号後記

早朝の小池公園

「ぱとす」夏号をお届けします。前号より少し歌の数が減りましたが、文章が増えましたので今号も二十ページの雑誌をつくることができました。
 表紙の写真は東京都大田区にある公園で、すぐ近くに私の事務所があります。それでよく散歩に行ったりしていたのですが、最近はあまり訪れていません。この写真は二年前の七月の早朝に撮影したものです。
 この小池公園は元々釣り堀だった池を十五年ほど前に親水公園として整備されたものです。水辺環境を活かして、身近な生き物との共生をテーマに作られました。カルガモ、サギ、カワセミなど美しい野鳥がけっこうやって来るので、シャッターチャンスをつかんで私もスマホでだいぶ写真に収めました。
 池の周囲には散策路があり、四季折々の野草を楽しめます。朝は犬を連れた散歩の人たちとそこで挨拶を交わしながらすれ違います。犬といっしょに暮らすことが私の人生で死ぬまでにやりたいことリストのいちばん最初にありますので、老人になる前に犬を飼ってここに連れてきたいと思っています。

 このぱとすは一九七〇年代の終わりから八〇年代にかけて私の父である甲村秀雄が中心となって発行されていた短歌同人誌で、私がその誌名を継承して三年前の夏に復刊したものです。
 父は現在八十二歳でだいぶ認知症が進み、介護サービスを利用しながら自宅で生活しています。長年お付き合いしていただいた方々に不義理を重ねています。文字を読んで理解することはもう難しく、彼は現在のこの「ぱとす」もほとんど読んだことはありません。
 私は父が存命の内は雑誌の発行を続けたいと考えています。

(「ぱとす」令和6年夏号より)

「ぱとす」令和6年夏号表紙

 

『岡野弘彦全歌集』ノート其の七

・しづまりし湖のみぎはのさざ浪に月照りてくるを見てい寝むとす(「さざ浪の国」)
・近江の湖塩津の浦に寄る波のさゐさゐとしてさびしき真昼(「さざ浪の国」)
・早苗田の棚田のなかを流れゆく八田部の川の瀬の音すみくる(「さざ浪の国」)
・水底の藻草のなびきさえざえと見えとほるなりあまりさびしき(「さざ浪の国」)
 滋賀県を旅されたときの歌です。
 一首目の湖は琵琶湖でしょう。
 二首目の「さゐさゐ」はさわさわと音がする様子を示す擬音語です。万葉集柿本人麻呂の歌「玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来て思ひかねつも」があります。
 三首目の八田部は滋賀県長浜市にある土地の地名です。
 さびしいという言葉がよく出てきます。

・けふ暮れて七日の歩みおのづから古きひじりのさびしさに似る(「四国辺土」)
・菜の花は暮れてののちも色たちてほのに明かるき道をゆくなり(「四国辺土」)
・夜ふけて語りいづるは順礼の旅にはてたる古びとのうへ  (「四国辺土」)
・あかときの襖へだてて聞えをり老いし遍路の称名の声(「四国辺土」)
・後の世を願ふならねどひたぶるに深谷寺の階のぼるなり(「四国辺土」)
志度寺の夕べの庭に思ふなりわがすぎてこし苦しき海やま(「四国辺土」)
 菜の花はくっきりと目立って明るい花だと二首目を読んで改めて思いました。
 四首目の称名は仏様の名前を声に出して呼んで称えることです。浄土教系は南無阿弥陀仏ですね。この旅行中の岡野氏は年齢はいくつぐらいでしょうか。五首目の後の世を考えるにはまだ若いのかもしれません。
 六首目の志度寺香川県の海沿いにある古刹です。これまでの旅を感慨深く思い出しておられるのでしょうか。

 このあと、歌集は「師の亡きのち」という章に入ります。岡野氏の人生の大きな転換点となる時期の作品が収められています。
・秋風の吹きぬけてゆく畳の上ひつそりと師は寝ていますなり(「病ひ篤し」)
・吸呑みの荒れし唇に触るる時わづかにまなこ開きましけり(「病ひ篤し」)
・むごきこと我にしふるとのらせしが再びは眼をひらきたまはず(「叢をくだる」)
・ほそぼそと我が名を呼ばす声すなり。あかとき暗き部屋のもなかに(「叢をくだる」)
・師が病ひ癒ゆることなくひと夏を過せし家の戸を閉すなり(「叢をくだる」)
・ひとつひとつ部屋の灯りを消しゆきてしづまりはてし家をいできぬ(「叢をくだる」)
 岡野氏は昭和二十八年七月から師の折口信夫とともに箱根仙石原の山荘で過します。折口は以前から病気だったのか、この滞在中に容態が悪化します。
 一首目に秋風とありますが、まだ八月です。
 三首目の「むごきこと」とは下山すべきだという岡野氏の提言で、折口はこれを拒絶しますが、岡野氏が説得します。
 五首目の詞書に「二十八日、叢隠居を閉ぢて、山を下る。」とあります。

・師のまさぬ家のむなしさ夜ふけてガスのほのほに手を温めをり(「師の亡き家」)
・胸のうへに手を組みしまま眠りますさびしき癖をもちていましき(「師の亡き家」)
・執深く生きよと我にのらせしは息とだえます三日前のこと(「師の亡き家」)
・あまりにもむなしくなりて眼とぢをり読み解きがたき師の文字ひとつ(「師の亡き家」)
 折口が亡くなり岡野氏の心にもっとも強く感じられたのはむなしさであったようです。
 二首目の手を胸の上で組んで眠るのは、何かその人の心理的な特徴を表わしているのでしょうか。さみしい癖というものは人に知られたくないものです。現在、私が父の介護をするようになって気付いたのですが、父も折口とまったく同じように寝るとき必ず胸の上で手を組んでいます。
 三首目の執は執念の執ですね。執着や固執の執でもあります。最後にまたむなしいという言葉が出てきます。岡野氏のその後の人生はこのむなしさとの戦いでもあったのでしょうか。

(「ぱとす」2024年春号より)

 

ぱとす2024年春号後記

 本年の「ぱとす」第一号をお届けします。今年から雑誌「ぱとす」は季刊になりました。復刊から二年半、隔月刊で発行してきましたが、つくづくこの雑誌が嫌になりました・・・・・・というのはウソで、バックナンバーをつらつら眺めるとまるで我が子のように愛しく思えます。私の人生の全てをかけて雑誌の編集に取り組む所存ですので、どうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。
 表紙の写真は大田区多摩川土手のガス橋緑地に咲いていた菜の花を撮ったものです。一月二十七日に撮影しました。早い時期に満開になったのは、周囲に日光を遮るものがなく、今年も暖冬だったからでしょう。二月に入ってからも記録的に気温の高い日がありました。今からもう今年の夏の暑さが心配になってしまうのは私だけではないはず。
 石川県能登半島地震から二か月が経過しました。少しづつ復興が進んでいるようですが、まだ断水が続いている地域もあるそうです。阪神淡路大震災は平成七年に起こりました。今回の能登半島地震は令和六年発生。震災は忘れたころにやってくるといいますが、元号が改まりしばらくして世の中が落ち着いてきたころに大地震が起きるのは、何か人知を超えた力が働いているのかと思ったりします。
 また、ロシアによるウクライナ侵攻から丸二年が経過。プーチン政権は国内で高い支持率を維持しているそうで、民主主義というのは戦争を防ぐことが出来ないばかりか、自分達のエゴで他国の人々を苦しめるダメな政治体制であることがはっきりしたと思います。今年は私たちの世界を取り巻くさまざまな欺瞞が暴かれる年になるでしょう。
(「ぱとす」2024年春号より)

「ぱとす」2024年春号表紙

 

『岡野弘彦全歌集』ノート其の六

・猩々木道をうづめて咲きつづく名護の入江に人を訪ひきつ(「妣の島」)
ベトナムへたちゆく兵に犯されし女の末を憤りいふ(「妣の島」)
・言ふことはつたなけれども老いびとの歎くまなこの澄みてはげしき(「妣の島」)
・仏桑華くれなゐふかく咲き垂るる首里王城の池をめぐれり(「妣の島」)
・夜に入りて風絶えはてし暑き部屋やもりの啼くをききて寝むとす(「妣の島」)
 一首目の猩々木はしょうじょうぼくと読み、ポインセチアの和名で、現在はほとんどこのように言わなくなったそうです。名護は昔から沖縄有数の観光地でした。米軍の辺野古新基地建設で埋め立て工事が行われているところでもあります。
 二首目はベトナム戦争の悲劇を知る人からその記憶を岡野氏が聴いている場面です。当時はここから米軍の爆撃機が多く飛び立ち、沖縄はベトナムの人々から悪魔の島と呼ばれて恐れられていました。
 三首目の結句で「はげしき」と表現されるところが岡野氏の着眼の優れているところだと思いました。
 四首目の仏桑華はぶっそうげと読み、ハイビスカスの和名らしいです。首里城周辺に美しく咲くハイビスカスの姿を想像できます。
 五首目のやもりの啼き声はどんな声だろうと思いYouYubeで探して聴きました。キィキィとかなり大きな声を出します。これがたくさんいて啼かれたらなかなか寝られなかっただろうと思います。

・越えて来し山のはざまを夕鳥のむれつつわたる見ればはろけし(「枯山」)
・草の穂ははつかにいでてそよぐなり吉野喜佐谷の峡に入りきつ(「よしの・あすか」)
・秋の陽は乾きするどし山の尾に如意輪堂の甍かがやく(「よしの・あすか」)
・何を願ひてともすあかしぞ堂ふかきゆらぎを見ればあはれ身にしむ(「よしの・あすか」)
 沖縄旅行のあとも近畿地方を旅して詠まれた作品が続きます。

 そして古事記日本書紀で描かれた神話の世界をまるで実在の旅のように岡野氏は歌で表現します。
・雄心を猛くたもちて降りゆけ葦原の国さやぎてありなり(「天若彦」)
・歎かひの心知らねば淡あはし天つをとめの妻と別れし(「天若彦」)
・天つ国もここも同じぞをとめ子はかなしき眼もて我を見にけり(「天若彦」)
・新芽だつ松のこずゑの蒼き空天つみ国はさやけかりにし(「天若彦」)
・神の怒りたもちがたしと嘆かへば血潮のごとし天ゆふ焼くる(「天若彦」)
・水銹び田のゐもりにも似て雄心の失せにしわれを鳥はののしる(「天若彦」)
・人の世にはじめて流す神の血のくれなゐ深く土にしむなり(「天若彦」)
 一首目で何か猛々しい気持ちが詠まれていますが、六首目でその雄心はもうどこかへ消えてしまいます。
 五首目で怒りが持続しなかったというのは、多大な犠牲を払ってアメリカと戦いながらも第二次世界大戦後の平和な時代を生きた日本人の精神状態の譬えとしても理解できます。
 七首目の上句はこれも歴史的に重大なことが起きたことの暗示であり、敗戦がまず連想されます。近代戦争のみならず、その長い歴史において日本は対外戦争でほとんど敗北したことがありませんでした。

・顕し世の青人草のなげかひを今よりは神も知りたまふらむ(「天若彦」)
・挽歌はま夜の長夜をつづけども鎮まりがたし謀反人われ(「天若彦」)
 古事記では人間を八首目にある青人草と表現しています。次々に生えて育っていくことから人と草を同視しています。さまざまな権利が認められているわれわれ現代人がこの表現に込められた感覚を素直に理解するのは難しいかもしれません。
 九首目の謀反人とは、何に対して刃向かい逆らっているのでしょう。

(「ぱとす」令和5年11・12月号より)

令和6年元日の初日の出

 

ぱとす2023年11・12月号後記

 この編集後記を書いているのは師走の半ばで、雑誌の発行はほぼ二か月遅れとなりました。隔月刊での発行は難しく、来年から「ぱとす」は季刊になります。

 京都の清水寺で毎年発表される「今年の漢字」は「税」に決まりました。私は暑か戦だろうと思っていましたが、多くの人にいちばん関心があるのはやはりお金の話題でした。お金などどうでもよいと思えるのは大災害が起きたときでしょうか。猛暑も戦争も来年は収まることを祈るばかりです。

 二十一世紀に入りあと数年で四半世紀が経ちます。また、令和も五年目が経過し、それぞれの時代の特徴が何となく見えてきたようです。
 時代を語ると言えば大げさな気もしますが、私たちが暮らしているこの世界や世間の姿を自分の言葉で語るのは大事なことです。歌を詠むことが、時代に流されない自分を見つけるためのきっかけになればいいなあと思います。

(「ぱとす」11・12月号より)

 

「ぱとす」2023年11・12月号表紙

 

『岡野弘彦全歌集』ノート其の五

 全歌集の『冬の家族』の続きを読んで感想を記します。

・のどかなる憩ひを欲ひてこしならず心つつましく寺庭にをり

 この「大和いづかた」の章は東京を離れて過去の出来事から詠まれた作品が集められています。寺院の固有名詞もいくつかの歌の中に登場します。この歌ではただ「寺庭」と記されています。
・桜の花散りくる土に長ながと横ほる塔の影を踏みゆく
・戦ひをのがれ帰りて無頼なる日に逢ひたりし女を悔しむ
・わがためにひたぶるなりし女ありき髪うつくしく夜はにみだれき
・隣り家にいでゆくごとくある夜の我をのがれて去りし女よ

 これらはまだ作者の個人的な過去の出来事を思い出して詠まれた歌でしょう。次の二首はまた別の女性を詠んでいると思われます。
・ひたすらに若き無慙を悔しみて女人高野の塔によりゆく
・手拭を白くかづきて塔の欄みがく女をつくづくと見ぬ

 悔いという言葉が繰り返しよく使われています。
・風たちて青葉の影のゆらめけばその幻の面わ見えこよ
・旅の夜の睡りにつかむひと時の心ゆりくる悔いはさびしき
・夜ふけてひたすらにわが念ひしは若き日つひに遂げざりしこと

 第二次世界大戦の日本軍の戦いを神話のように表現した秀歌が続きます。
・神倭磐余彦の軍に追はれ這ひいづる盲土蜘蛛に心寄るなり
・草の葉の露をすすりてのがれきつ地にさらぼへる土蜘蛛の裔
・地にひそむ名もなき鬼もうめき出よ疼きのごとく陽は土に沁む
・まざまざと眼に顕つものか眉焦げて戦ひの夜をのがれ来し顔
 朝廷の官軍=アメリカ軍、土蜘蛛や鬼=旧日本軍という図式なのですが、一般には分かりにくいと思いますし私も考えがまだよくまとまっていませんのでいずれくわしく論じたいと思います。

・旅に倦む心すべなしたたずみてぜんまいの芽のほぐるるを見つ
 旅行中に旅行にあきることは確かにあります。そして何気ない小さな生物の様子に心がひかれほっとすることもよくあります。

・菜の花の黄のひろがりのただ中に蒼くたたまるは天の香具山
二上の男嶽の道をのぼり来て宇陀の高原に立つ虹を見つ
 奈良を旅するときは万葉集の教養があるかないかでその旅行の楽しさはまったく別物となります。私はかつて一度だけ奈良を旅したことがあります。ぜひまた行きたいと思っていて、それまでにもっと万葉集を学んでおきたいです。
・山風のとどろくときに梁きしむ古きみ堂にい寝がたくをり
当麻寺西塔の下に見いでたり姫あてびとのかそかなる墓
・生ける日は苦しかりければ古びとは祈りをもちて魂を鎮めつ
・よみがへり信ずるゆゑにうつくしき明日香の御代の魂ごひの歌
・魂は何方へゆきてしづまるや泊瀬のやまの峡くらく見ゆ

 「大和いづかた」のあと、沖縄を詠まれた「妣の島」が続きます。沖縄は日本の原始的な姿が残っている土地であるとも言われます。古代の奈良から原始日本である沖縄へ、岡野弘彦の旅は日本人の精神史の古層へと深く潜っていくのです。
・暮れはてて海波の荒れのつのりくる海に幻のごとき島見ゆ
・人の住む島とも見えずそそり立ち夜のうみぎしに迫る岩むら
・空よりもさらに真蒼になぎわたる大海原に舟一つゐぬ
・波の秀の色さえざえと変りきつ沖縄じまに船は近づく

 上陸して、島の人々や暮らしの様子が歌に詠まれます。
・水桶を頭に据ゑて歩みくる眉間の皺のするどき女
・島びとを入るることなき青芝はら鉄条網のなかにかがやく
・地に低き榕樹の森のかげりくる島の夕べに鳴きいづる鳥    
・島びとは昼をひそみて眠るらし真裸の子が庭に遊べる
・茅屋根の母屋につづく鶏小屋にひしめく鶏の臭ひたちくる

(「ぱとす」2023年9・10月号より)

ハイビスカス