ぱとすの人

短歌同人誌「ぱとす」に掲載した文章や編集後記を公開します。

川口慈子歌集『Heel』の感想

 川口慈子歌集『Heel』(短歌研究社)を読みました。著者の第二歌集です。Heel(ヒール)とはプロレスの悪役のことで、著者は女子プロレスのファンのようです。
・Heelにはなれないけれど漆黒のルージュ濃く引く出勤の朝

 音楽を大学院の博士課程まで進んで学んだ方です。ピアノ演奏について詠まれた次のような作品があります。
・指先を離したら負け0・01秒ほどの余韻残しぬ
・鍵盤の軽いピアノを指先でつつく此処から飛び立てるかな

 ピアノの指導を仕事でもされているらしく、専門であるピアノについて詠まれた作品にリアルな心の動きが表現されていると思いました。
・怒らない私を盗み見る少女底の底まで覗いてごらん
・バランスを微妙に崩し着地する蝶のごと美しき音色を探る
・この場所と定めて鳴らす一音に問いたり今朝のわれの機嫌を
・かなしみを追いやるために友が弾く荒き音色を全身に受く
・鍵盤に指先沈め呼吸する私はここでしか生きられず

 米川千嘉子氏がこの歌集の帯文に記された「川口さんを愛し縛ったかもしれない「家族」の「ビーチパラソル」は思いがけないはやさで失われた」のビーチパラソルは次の歌にあります。
・才能というギャンブルにくずおれた家族が回すビーチパラソル

 この歌集は著者の両親が亡くなる時期を含んでいます。作品も装丁もスタイリッシュな歌集です。しかし、著者があとがきにも書かれているように、歌集全体の大きなテーマは家族です。
・亡くなりし母のおでことコッツンコ芯まで冷えた魂摑む
・母の肉体へ最後のノクターン響かせこの世の全てをあげる
・家中にバリアを張って父と我の帰り待ちおり骨壺の母
・夢に見る亡母は最近穏やかで何でもないことばかり言うなり

 作品から察するに、著者はお母さまの死に少し後悔があるようです。お父さまの介護もされていたようで、最後の日々は改めて両親と自分との関係を見つめ直す貴重な時間を過されたと思います。
・守るべきものは見せたくない日々の紅茶に溶かすトロイメライ
・誰が夢を背負いし我かいつまでも回転木馬の木馬に乗れず

 (「ぱとす」2023年7・8月号より)